1970年大阪万博でコンパニオンを務めた滝川京子さん(左)と奥原さゆりさん=大阪府吹田市(須谷友郁撮影)

55年前の盛り上がりを再び-。2025年大阪・関西万博の開幕が1年前に迫り、1970年大阪万博のパビリオンで活躍した元コンパニオンたちも胸を躍らせている。当時、「サンヨー館」で案内役を務めた滝川京子さん(76)=大阪府吹田市=らが70年万博の思い出を振り返りつつ、すでに前売り入場券も購入したという25年万博への期待を語った。

「スカートが短いので最初は着るのに抵抗があったけど、黄色の衣装を身につけると万博へのワクワク感が増した」

滝川さんは70年万博のシンボル、太陽の塔にほど近い自宅で、コンパニオンの衣装を手に当時へ思いをはせた。

コンパニオンになるきっかけは昭和43年11月、神戸市内の大学3年生だったとき、たまたま足を運んだ学生部で応募を勧められたことだった。

「世界から人が集まるそうだし、おもしろいかも」。書類選考後、宝塚歌劇のプロデューサーらによる面接を経て同年12月に合格した。

翌春からの研修は1カ月に2、3回を基本に、夏休みには合宿も実施。歩き方や話し方、テーブルマナーなどが講師から教え込まれた。「給料も出たし、楽しく充実していた」という。

開幕の45年3月が迫ると、パビリオンでの実践的な訓練が始まった。本番1、2カ月前だったが、あちこちで工事が続いていた。太陽の塔は姿を現しており、巨大さに圧倒された。

1970年大阪万博でコンパニオンを務めた当時の滝川京子さん(本人提供)

そして開幕。サンヨー館で、人間洗濯機とともに注目されたボタン操作で調理から食事までできる「フラワーキッチン」の案内を担当し、4勤1休のローテーションで現場に入った。

当初の会場は空いていたが、会期が進むにつれて万博は盛り上がり、後半は歩けないほどのにぎわいになった。最終日は「蛍の光」が流れる中で来場者を見送り、「万博の半年間はあっという間だった。明日からないと思うと寂しさがこみあげてきた」と振り返る。

あれから半世紀が過ぎたが、今もサンヨー館のコンパニオン仲間とは交流が続く。今回の取材に同席した奥原さゆりさん(74)=同府豊中市=もその一人。「まさか大阪でまた万博があるとは」(奥原さん)としながら、2人は25年万博に向けた盛り上がりや関心の高まりを少しずつ感じている。

元コンパニオンとしてテレビ局の取材をそろって受け、そこで披露したエピソードをもとに、今年3月には俳優の橋本環奈さんが主演した70年万博のドラマも放映され、2人はエキストラ出演した。

奥原さんは「万博は一生の中でタイミングが合わないと参加できない大イベント」といい、滝川さんは「70年万博で日本人が元気になったように今回もそうなるはず」と確信。コンパニオン仲間とともに会場を訪ねることを楽しみにしている。(井上浩平)

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