(写真:TNマネジメント)誰もが気軽にSNSを駆使し、思い思いに情報発信できるようになった。しかし、SNSの使用には時としてリスクもともなう。本稿は橋下徹氏の新刊『情報強者のイロハ 差をつける、情報の集め方&使い方』より一部抜粋・再構成のうえ、SNS利用時の注意点をご紹介する。

アウトとセーフの線引き

橋下はいつもSNSで激しい言い争いをしている──。相手を罵倒している──。そんな印象を持っている方もいるだろう。そのとおりだ(笑)。

でも、なにも闇雲に口論しているわけではない。僕が断固とした態度を取るのは、とうてい容認できない情報を流されたときだ。僕にまつわる明らかな誤解、曲解、デマのたぐいである。それに対しては徹底的に戦う。相手が引かなければ、僕も引かない。時にはケンカ腰の物言いも辞さない。

その過激な物言いを見て、橋下は口が災いしてたくさんトラブルや訴訟を抱えているのだろう、と思う方もいるかもしれない。でも答えはノーだ(僕が訴えられたのは市長時代の発言をもとに、前任市長に訴えられた一件だけだ。その裁判でも結局、僕の発言は名誉毀損にあたらないとして、前任市長の慰謝料請求は棄却された)。

なぜ僕は過激な物言いをしても訴訟沙汰にならないのか? それは「ここまでなら言ってもセーフ」「ここまで言ってしまえばアウト」と明確に踏まえたうえで発言しているからだ。

ひょっとしたら僕のきつい言葉に憤慨し、橋下を名誉毀損で訴えてやろうと弁護士頼った人もいたかもしれない。でも「勝ち目はありません」と告げられたはずだ。

僕はSNSで発する際、感情にまかせてまくし立てることはない。たとえそう見えたとしても、それは口論上のいわば戦法だ。いかに激しい言葉であっても、そこにはつねにアウトとセーフの線引きがある

いまや1億総情報発信の時代だ。誰もが自由に情報発信できるSNSは21世紀の大発明だろう。でもその自由は、個々人の責任によってまかなわれている。

自由だからといって、感情的で浅はかな言動に走れば、誰かを不当に傷つけることになりかねない。それが名誉毀損罪や侮辱罪に該当すれば、法的な裁きを受ける。もちろん社会的信用も失うだろう。そんなつもりで言ったんじゃない、という理屈は通用しない。悪意がなかったとしてもダメだ。むしろよけいタチが悪い。SNSは公共の場である。不用意な発信は慎まなければいけない。

でも、それで萎縮し、ものが言えなくなっては本末転倒である。あなたの手にある「発信力」という武器はぞんぶんに活用すべきだ。言うべきときにははっきり言う。時には過激で大胆な意見も有意義である。でなければ、新しい価値は生まれない。

SNSは自由だ。でもその自由は、ある種の不自由、つまり責任によって保障される。アウトとセーフの線引き。それさえ押さえれば、あとは自由である。思うぞんぶん、発信したいことを発信しよう。それがあなたの付加価値になるのだ。

事実を言うと「名誉毀損」になる

SNSでは名誉毀損をめぐるトラブルが絶えない。

いくら本人にそのつもりがなくても、相手の社会的評価を低下させる発言だと見なされれば、名誉毀損に該当しうる。訴えられると、民事・刑事上の責任を負うおそれがある。

でも、そもそも名誉毀損とは、具体的にどのような事態を指すのだろうか。名誉毀損罪は刑法230条で次のように定義されている。

〈公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役もしくは禁錮または50万円以下の罰金に処する〉

ここでポイントになるのは「公然と事実を摘示(提示)」という箇所だ。

ウソ(虚偽)の情報を用いて、相手の社会的評価を低下させる──。名誉毀損をそのようなニュアンスでとらえている人が多いのだが、それは誤りだ。その情報が本当かウソかは関係ない。誹謗中傷にあたるのかどうかも関係ない。

たとえ偽りのない「事実」であっても、相手の社会的評価を低下させる情報なら、名誉毀損になる。

あくまで問われるのは、相手を貶める「事実」の摘示(提示)、それ自体なのだ。

(写真:TNマネジメント)

「あいつは○○をしたから、サイテーなやつだ」

○○がネガティブな事実の情報なら、その情報の真偽を問わず、これを発した人はアウトだ。名誉毀損で訴えられると言い逃れは難しい。

(ただし、名誉毀損行為だったとしても、その事実の摘示に、「公共性」「公益性」「真実相当性」の3要件がすべて満たされていれば、名誉毀損は成立しない。メディアが政治家や大手企業の不正を報じるのはその3要件を満たしているからだ)

「あいつはサイテーなやつだ」

これだけだと「事実」はない。単なる非難(意見)にすぎない。だから名誉毀損にはならない。

(ただし、非難の言葉が過ぎれば責任を問われる)

僕は職業柄、法律上のさまざまな相談を受ける。名誉毀損で訴えられた人がよく口にするのは「事実を言ったのに名誉毀損になるんですか?」という質問だ。なるのだ。それは罪にもなりえる。

そんな人の言い分はだいたいこうだ。根拠のない言いがかりをつけたわけじゃない。責せめられてしかるべき「事実」があるから非難したのだ。それのなにがいけないのか。

個々人の社会的評価は重い

──気持ちとしてはわからなくもない。

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なにせ私たちは「ウソはいけない」と思って生きている。小さいころからそう教えられてきたし、後進にもそう指導しているはずだ。そして社会通念上、それはもちろん正しい。

でもだからといって、ありのままを公にさらしていいという理屈にはならない。

個々人の社会的評価というのはかくも重いのである。

繰り返すが、「公然と事実を摘示(提示)」した時点で責任を問われうる。かたや「事実」をともなわない非難(意見)は、言葉が過ぎないかぎり表現の自由だ。

名誉毀損の問題を考えるうえでなにより大切なのは、個々人が有する社会的評価の尊重だ。原則としてそれを貶める権利は誰にもない。それが名誉毀損の法解釈の原点である。

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