駆け出しの時期に書いたストーリーの2度目の書き直しを発表した村上春樹(2023年10月、スペインのアストゥリアス皇太子賞授賞式で) SAMUEL DE ROMAN/GETTY IMAGES
<村上春樹の『街とその不確かな壁』英訳版がこの冬に刊行された。壁に囲まれた街にこだわった理由とは?>
たいていのアーティストには、何度も立ち返るアイデアやテーマがあるものだ。それを練り直したり、書き直したりして、新しい作品に昇華させる。それはこだわりというよりも、どこか取りつかれている感じに近いかもしれない。
だが、小説家が駆け出しの頃に書いたストーリーを、キャリア半ばに書き直して発表し、さらに円熟期もかなり入ってから、磨きをかけて、三たび発表するのは珍しい。
村上春樹が『街とその不確かな壁』(2023年4月刊)でやったことは、まさにそれだ。初期に書いた中編小説『街と、その不確かな壁』を、1985年に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』として書き直し、さらに作家としての成長を反映するかのように、深くまで手を加えて完成させた。
この小説で展開されるのは、冬の村上ワールドだ。一見したところ、しなびて静かだけれど、ひそかに希望と喜びを蓄えている季節だ。そして村上が立ち返るのは、名もなき男が、現実の世界と、時間が止まった(ように見える)壁に囲まれた街の両方に存在する、という設定だ。
街の住民は質素な服装で、「簡素だが不自由のない生活」を送っている。主人公はそこで、卵のような形をした「古い夢」が並ぶ図書館で働いている。その仕事は、かつて恋をした少女(やはり図書館に勤めている)に助けてもらいながら、夢を読むことだ。
街の中央の広場にある時計台には針がなく、その街で暮らすためには、門衛によって影を引き剝がされることを承諾しなくてはいけない。
英語版は2024年11月に発売 COURTESY OF PENGUIN RANDOM HOUSE初期の村上の作品にあふれているSFや探偵小説のような要素は、『街とその不確かな壁』からは一掃されている。むしろ瞑想的で、メランコリックで、謎解きは誰かの陰謀ではなく、自分探しの性格を持つ。
「本当の私」がいる場所
壁に囲まれた街は、主人公が高校生のときに出会った少女とつくり上げた想像の世界だ。彼女はある日突然姿を消してしまい、主人公はひどく動揺するが、やがて書籍の取次会社に就職して、ごく普通に年を重ねていく。
ところが40代のある日、穴に落ちて(村上の物語によく登場するモチーフだ)気を失い、壁に囲まれた街で目が覚める。かつて少女は、本当の自分が生きているのはその高い壁に囲まれた街で、彼も心から望めばそこに入れると言っていたのだった。
村上の作品は、唯我論的と評されることが多い。実際、『街とその不確かな壁』の中核を成すのも、自己をいかに構築して維持するかの物語だ。それはしばしば、自らの幸福も他者の幸福も犠牲にして追求される。
極度に内向的な読者は、「この現実が私のための現実ではないという肌身の感覚は、そこにある深い違和感は、おそらく誰とも共有できないものだ」という主人公の感覚に、深く共感するかもしれない。
社交的な読者も、壁に囲まれた街にある種の魅力を感じるかもしれない。そこは確かな静けさが支配していて、季節は予想を裏切ることなく巡ってくる。結局のところ、多くの政治運動の根幹を成すのは、こうした昔ながらの継続性への憧憬ではないか。
壁に囲まれた街にとどまるためには、自分の影と切り離されることに同意しなければならない。ひとたび本体と切り離されると、影はゆっくりと弱っていく。それは主人公の別の一面らしく、より分析的で、冒険的なきらいがある。
そんな影に向かって主人公は言う。
「ぼくという存在はこの街に呑み込まれていくかもしれない。でももしそうだとしても、それでかまわない。ここにいれば少なくともぼくは孤独ではない。この街で自分がとりあえず何をすればいいのか、何をするべきなのか、それがわかっているから」
その街には、ずっと忘れられなかった10代のときの恋人がいる。彼女は彼のことも、かつてのロマンスのことも覚えていない。それどころか、多くの住民のように、強い感情を持つことすらできないようだ。それでも、その街にとどまれば、おそらく彼は毎日彼女に会うことができる。
村上らしからぬ現実味
結局、現実の世界に戻ったらしき主人公は(穴に落ちたときから、ほとんど時間はたっていないようだった)、会社を辞め、山間の小さな町の図書館に仕事を見つける。
そこでの生活には、猫やフレンドリーな幽霊、ジャズ、食事の支度といった、村上ワールドの常連的要素が登場する。黄色い潜水艦の絵(ビートルズの「イエロー・サブマリン」)が描かれたヨットパーカを着た少年もいる。
この時期は、3部構成の作品の中盤を占め、のんびりとして質感あふれる展開となっている。山間の町とそこに暮らす人々は、村上作品らしからぬ現実味にあふれている。主人公の生活は、壁に囲まれた街の残響かもしれないが、その違いは小説の結末に決定的に重要になる。
壁に囲まれた街とはなんなのか。刑務所なのか、ユートピアなのか。現世なのか、死後の世界なのか。過去なのか、未来なのか。
『街とその不確かな壁』で描かれる街は、村上のイマジネーションそのもののようだ。そこは時間が止まった領域で、その図書館には、何度も立ち返れる古い夢が保管されている。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、壁に囲まれた街は科学者によってつくられるが、『街とその不確かな壁』の街は、恋に落ちた少年と少女が、現実を拒絶してこしらえた世界だ。
主人公にはそれが、これまでの村上作品のどの登場人物よりも、はっきりと見える。それは、村上自身の理解が深まったことを示しているようでもある。
ここまで来るのに40年以上の歳月を要したことを考えると、村上がこの目的地にたどり着いたことを、一段と歓迎せずにはいられない。
©2024 The Slate Group
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