80歳の先生が導いた京大の合格
この連載の一覧はこちら今回お話を伺った、にこにこさん(仮名)は、5浪で京都大学法学部に合格した方です。
ずっと京大を目指して受験勉強をしてきた彼女でしたが、苦手だった数学の成績が足を引っ張り続け、浪人の年数を重ねてしまいました。
しかし、4浪目で入った予備校の80歳の数学講師が、彼女の考え方を劇的に変え、合格の礎を作ったのです。
80歳の先生が彼女に伝授したこととは何だったのでしょうか。そして、彼女は5浪をしても、なぜ京都大学の合格を諦めなかったのでしょうか。彼女の熱意の根幹に迫っていきます。
にこにこさんは経営者の父親と、専業主婦の母親のもと、大阪府で生まれました。教育熱心な家庭で、幼少期からたくさん勉強をしていたこともあり、私立の小学校に通ったそうです。
「小学校に入ってからは、幼少期から通い続けていた七田式教室を含め、ピアノ・水泳・英語の習い事をしていました。習い事があるので、自分の自由な時間はなかったですが、やらされていた感はありませんでした。習い事には、むしろ遊びに行っている感覚だったので、楽しかったですね」
テストの成績も悪くなかったそうで、小学校4年生になると浜学園に入り、中学受験の準備を始めます。
関西有数の難関女子校である神戸女学院中学部を目指した彼女は、第1志望の神戸女学院と第2志望には落ちてしまったものの、なんとか第3志望の中高一貫校に合格しました。
しかし、第1志望校・第2志望校に落ちてしまったことは、大きな心のしこりとして彼女の中に残り続けることになります。
中学受験の挫折によって、入学して間もない1年生から大学受験での挽回を意識し始めた彼女。ところが「学校の授業の間に、塾の課題をやらないと、塾の授業についていけなかった」ため、学校での成績は下がってしまったそうです。
「小学生のときから、周囲の人はすでに大学受験を意識していたので、いい学校に行くことが(自分にとって)いいことだという考えがありました。そのため、中学1年生のときから研伸館に通い、いい大学に行くために高校3年生まで、ずっと塾で出される課題についていくために勉強をしていました」
予備校の勉強に追われる高校生活
そして、高校に上がるタイミングで、京都大学の法学部を第1志望に設定します。
「当時は学校の授業が終わったあと、ほぼ毎日、17時から21時まで研伸館の授業を受けて、家に帰っていました。学校の勉強はまったくやらずに、期末テストの範囲がどこかもわからない状態で受けていましたね……。とにかく塾のテキストを頑張ってこなす日々でした」
結局、中学に入学してから初めてのテストでは300人中5位だった彼女の順位はどんどん下がってしまい、高校3年生の最後のほうには150位を切って、下から数えたほうが早くなってしまいました。
学校の成績を犠牲にして京大受験に力を割いた彼女でしたが、模試の判定は、無情にも、3年間ずっとEだったそうです。
「現役のときの成績では、学校の先生にも(京大は)ちょっときびしいと面談で言われたのですが、やってやろうと思って受験しました」と語る彼女でしたが、結局この年のセンター試験は「現代文でパニックになり、ほかの科目でもすごく気持ちを引きずった」ために得点率は72%で終わりました。京大法学部を受けたものの、合格最低点から100点以上足りずに落ちてしまい、浪人が確定したのです。
すでに現役のときから浪人を覚悟していたにこにこさん。決断の理由を尋ねたところ「バカにした人を見返してやりたかったから」と意外な理由が返ってきました。
「自分が中学受験で第1志望・第2志望に落ちたとき、一緒に受験した友達や塾の先生たちに『やっぱりな』と見下されたような気がしたんです。
だから、当時の悔しさを挽回するには東大か京大しかないと思っていて……。関西(の人間)でしたし、京大のほうが面白そうだなと思って志望しました。推薦で受けた某外国語大学には合格したのですが、第1志望以外考えられなかった私にとって、そこ(京大)に行かなければ生きている意味がないと本気で思っていたんです」
大阪大学に進学したものの…
そう決めて駿台大阪南校に入った彼女は、京大文系コースに通い、9時から17時まで授業を受け、帰宅してからその日の復習と次の日の予習をする1年を過ごします。それでも成績は、なかなか上がらなかったそうです。
「模試の英語の偏差値は70ほどありましたが、数学は偏差値55のままで、現役からほぼ変わりませんでした。この年も前期は京大法学部を受けるつもりでしたが、予備校のチューターさんに『受かるところに出願したほうがいい』と説得されたことと、来年の成人式で『まだ浪人している』と思われるのが嫌だったため、関西学院大学の法学部と、後期試験で大阪大学の外国語学部を受けました」
この年はセンター試験こそ前年度より大きく上がって80%だったものの、京都大学には歯が立たなかったにこにこさん。それでも、大阪大学と関西学院大学には合格できたので、いったん大阪大学に進学する決意を固めました。
1浪の年齢で大阪大学に進学したにこにこさんでしたが、結局、踏ん切りがつかずに、入学式の3日後にすぐ河合塾の上本町校に通うようになります。
「実は阪大に行く前から、予備校に通うかどうかをすごく迷っていたんです。実際に大学に行ってみると、入学式で友達ができましたし、遊ぶ約束をしたり、サークルの勧誘をしてもらったりして、とても楽しそうだなと感じました。
でも、ここに通い始めたら、満足しちゃうだろうなという気持ちが芽生えて……。今まで何がなんでも京大に行くと決めて頑張ってきた気持ちもあったのに、こんなに簡単に崩れるようなものだったのか……と思ってしまったんです。
第1志望を目指していた気持ちを引きずりながら、中途半端に大学に通うよりは、スパッと(誘惑を)断ち切るほうがいいと思って、籍だけ置いて予備校に通う決断をしました」
この年も、前年の駿台での生活と同じように、朝から晩まで勉強していたにこにこさん。
模試ではたまに京大でD判定が出るようになったそうですが、相変わらず数学が足を引っ張り、成績が大きく上がることはありませんでした。センター試験は82%と上がったものの、京大には手が届きませんでした。
ためらいなく3浪を決意したにこにこさん。「後に引けなくなった」と語る彼女は、予備校を、なんばにある代ゼミのビデオコースに変えて試行錯誤をしますが、なかなか結果につながらず、精神的に追い詰められていきます。
「親は『またか……』という感じでしたが、特に何も言ってこなかったのでありがたかったです。このころから1日中誰とも話さないことが増えて、外に出るのも嫌になりました。体重も高校のときから20キロ増えてしまいました……。『なんでこんなに頑張っているのに、成果が出ないんだろう』と思って、思い切って自分に合わない授業を受けない選択もしてみたのですが、結局この年もダメでした」
4浪目で通い始めた予備校で運命の出会い
3浪目もセンター試験で84%を記録したものの、またしても京大の合格は掴めませんでした。
4浪目に突入したにこにこさんは、悩んだ末に、この年は医学部専門の予備校に通うことに決めます。
「多浪生も多く通っている予備校のほうがいいかなと思って選びました。勉強で頭打ちになって困っている人が、なぜ成績が上がらないのかがわかる先生がいるのではないか、と思ったんです」
すると、にこにこさんは、この予備校で運命の出会いを果たします。
「京大数学に対応できる考え方を教えてくださる80歳の先生に巡り合ったんです。先生がテキストを作ってきて、その問題を先生の前で1から解き、解いている状態を先生が見るという形式の授業でした。
私は要領が悪いアプローチや、計算の仕方をしていたみたいで、『この計算の仕方のほうがいいよ』と教えていただけました。
また、私は公式を丸暗記するのが苦手なのですが、その公式を証明したうえで、その考え方がどこからきているのか、本質を教えてもらえたのです。『もし公式を忘れても、忘れたときは1から自分で証明して導いたらいい』と言ってもらえて、こんな考え方ができる先生がいるんだとびっくりしました」
80歳の先生とのノート(写真:にこにこさん提供)80歳の先生との出会いのおかげで、数学の偏差値が大きく上がり、偏差値70くらいになってきたにこにこさんは、ついに初めて京大オープン模試でA判定を獲得します。
センター試験でも86%を獲得し、「この年こそいけるかもしれない」と思った彼女。しかし、残酷にも合格最低点から30点足りずに、5度目の不合格を突きつけられてしまいました。
悲しい報せが届く
この年は「さすがに落胆した」と語るにこにこさん。一方で、あと1年やれば受かるという希望も持てたようで、受験終了後に80歳の先生と食事に行き、「来年も頑張ろうね、春になったら連絡ちょうだい」という話をします。
しかし、これが彼女と先生との最後の会話になりました。
「春になって、また先生のもとでお世話になろうと思って連絡したところ繋がらず、予備校に問い合わせたら、先生がお亡くなりになったと言われました」
あまりにも突然の報せに驚いた彼女でしたが、それまでに先生から学んだことを生かして、キープとブラッシュアップをすることで、この年こそ必ず合格しようと誓います。
「今まで私が落ち続けたのは、計画性がなく要領が悪いこと、時間があるせいで余計なことを考えてしまうことなどに大きな原因があると思いました。
漫然と塾に通っているだけで安心していて、なぜ点数が伸びないのか、数学ができないのかを突き詰めて考えられていなかったなと思います。
だから5浪目は、9時〜10時 数学の自習、10時〜10時半 塾への移動、10時半〜12時半 個別指導……というふうに10分きざみのスケジュールを作って、忙しい生活を送るようにしました。そうすると、マイナス思考に陥る時間が減って、前向きになれました」
「阪大の休学が4年目に突入して最後の年になっていたこともあり、この年でだめなら諦めて阪大に通おうと思っていた」にこにこさんは、5浪目を最後の挑戦にすると決めていました。
四谷学院に入ったこの年は、受けた模試で京大はほぼ全部A判定だったようで、センター試験も88%を記録します。この年こそは受かると思った彼女でしたが、2次試験の1日目に受験した数学がまったくできずに落ちたと思ったそうです。
「京大は大問が6つ出題されるのですが、1完(1問完答)すらできませんでした。多分落ちたと思って、その日は布団の中で泣いていました。でも、阪大に行こうという覚悟も決まっていたので、なんとか切り替えて2日目をいつもどおりこなしました」
数学以外はいつもどおりできたと語るにこにこさんでしたが、それでも落ちただろうなと思っていたそうです。
合格発表も「一応確認しておこう」と思っていましたが、いざ見てみると夢にも思わなかった自分の番号が目に飛び込んできて、とてもびっくりしたそうです。
「信じられませんでした(笑)。嬉しいというよりは、やっと終わったという感じでしたね。迷惑をかけた親に報告すると、すごく喜んでくれたのでよかったです。終わってみれば合格最低点を30点上回っていたのですが、おそらく数学で部分点を結構もらえていたのが大きいと思います。
京大の数学は、解答だけじゃなくて、一緒に配られる計算用紙に書いてある計算過程・思考過程も点数に入れていると80歳の先生に聞いていたので、今までは省略しがちだった部分をきっちり書いたから合格できたのかなと思います。ここまで浪人させてくれた親と、先生には感謝しています」
同窓会にも堂々と行けるようになった
こうして、にこにこさんは6回目の挑戦で京都大学法学部の合格を掴み取ったのです。
5浪して念願の京都大学に入れたにこにこさんは現在、京都大学の最高学年。
いま、波瀾万丈の浪人生活を振り返って彼女は、浪人してよかったことを「余裕が生まれた」、頑張れた理由に関しては「浪人を許してくれた家庭環境のおかげ」と答えてくれました。
「今まで私は、現役で京大に行った友達を妬んでいたんですが、自分が京大に入ってみて、素直にすごいことなんやなと思えるようになったんです。同窓会に行くのがすごく嫌だったんですが、堂々と行けるようになったのが、自分の人生にとってよかったですね」
また、浪人を通して彼女自身の性格にも大きな変化があったと言います。
「もともと私はプレッシャーがあると余計に焦ってしまう性格で、ミスが多い人間でした。だからセンター試験はとても苦手でした。
浪人生活を送る中で、数学などの学問を通して、計算ミスが多いことに気づけたのはよかったです。
ミスが多い性格を直すのは難しいですが、綺麗に整頓した答案や、頭の整理などの工夫を駆使して、ミスを減らす方法を学べた気がします」
京都大学内外でさまざまな人と出会って経験を糧にしてきた彼女は現在、「学歴は重要だけど、すべてではないと思えるようになった」と考えます。大学生活を送る中で、新しい夢もできたそうです。
平和や人権守る法曹を目指す
「私は高校生のときから、歴史認識問題を解決したいとの思いがあり、ずっと官僚になる夢がありました。でも、『2浪までが限界だ』と就活の予備校で散々言われてきて、何回も自信をなくしました。
もし今官僚になるのが厳しくても、違う方向からアプローチすればいいと思っています。『国際社会の平和や人権を守る法曹になる』という目標に向けて、7月の司法試験の予備試験に向けて勉強しています」
「浪人がこんなにしんどいことだと知らなかった」と激動の5年間を振り返った彼女。そのつらい経験や、恩師との出会いで得た忍耐力・思考法があったからこそ、夢を再構築し、現在を前向きに生きることができているのだと感じることができました。
にこにこさんの浪人生活の教訓:ミスする性格が直らなくても、考え方一つで減らす工夫はできる鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。