越前を離れ、夫が住む都に向かう式部
藤原宣孝と結婚することを決断した紫式部。父・藤原為時の赴任先である越前国(福井県)をいち早く立ち、宣孝がいる都に戻ってきました。
越前から都に戻る途上に詠んだと思われる歌に「名に高き越の白山ゆきなれて伊吹の嶽をなにとこそ見ね」というものがあります。
(有名な越前の白山は往き来し慣れているので、伊吹山の雪など何でもありません)という意味です。
ちなみに詞書には「みづうみにて、伊吹の山の雪いと白く見ゆるを」(琵琶湖にて、伊吹山の雪がとても白く見えた)と書かれています。
式部は越前にいたとき、庭先に山のように積もった雪を「見てみましょう」と誘われても、「故郷の京の都に帰る山路の雪ならば、見にでも行きましょうか」とそっけない態度を取ったほどでした。
それが、今では「雪なれて」と詠んでいるのです。気分がよい、ウキウキしている式部の心情を読み取ることができます。
もう二度と雪国・越前に帰らなくていい、そして都が目前に迫っている。そんな気持ちが、このような歌を詠ませたのでしょうか。
また、造られてから長い年月が経つ卒塔婆(木造供養塔)が倒れ、道を行き来する人々に踏みつけられる光景を見た式部は「心あてにあなかたじけな苔むせる仏の御顔そとは見えねど」と詠みます。
(推測ではあるが、あれが仏様のお顔にあたる部分だと思うと、もったいない。人が踏むではないか。でも、苔むした卒塔婆を見ると、とても仏様だとはわからないが)
道に倒れている卒塔婆にも注目し、思いやるかのような歌を詠む式部。
越前時代は頑なになり、まるで氷の世界の中にいるように、心が閉ざされていた式部でしたが、ここに来て、雪解け、春が訪れたようです。
50歳目前の宣孝と20代後半の式部
その式部の心を解かした人が、夫となる藤原宣孝でした。宣孝は50歳目前、式部は20代後半。年の差夫婦の結婚生活はどうなるのでしょうか?
宣孝の歌には「け近くて誰も心は見えにけむ ことば距てぬ契りともがな」というものがあります。
「こうしてお近付きになって、私の想いはわかってくださったのでしょうから、この先は隠し立てをしないで、話し合える契りを結んでほしいのです」という意味です。
こうして式部が都の邸(実家)に戻ると、宣孝から歌と文が送られてきたのでした。
紫式部の邸宅跡とされる京都・廬山寺(写真: ogurisu_Q / PIXTA)式部に対して、愛おしいという想いや、前掲の歌のようなこと(この先は隠し立てをしないで、話し合える契りを結んでほしい)を表明したのでしょう。
それに対し、式部は「へだてじと習ひしほどに夏衣 薄き心をまづ知られぬる」と返します。
(私があなたを疎んじたことはありませんが、逆にその間にあなたの薄情さがわかりました)というような意味です。
ここで式部が触れている、宣孝の薄情さが具体的には何を指すのかわかりませんが、もしかしたら、近江守の娘と宣孝が噂になっていることをまだ言っているのかもしれません(宣孝には、近江守の娘に言い寄っているという噂があったのでした)。
式部からのキツイ返答に、宣孝はどう返したのでしょうか。
「岑寒み岩間氷れる谷水の ゆく末しもぞ深くなるらむ」
(まだお逢いしていないので、私の心も打ち解けていないように思われるかもしれませんが、将来はきっと深い仲になることでしょう)と返歌したのでした。
年上らしく悠然とし、余裕が感じられます。式部も結婚すると決めて都に帰ってきたのだから、「あなたの薄情さがわかりました」などと言わず、もっと温もりのある歌を送ればよいのにとさえ思ってしまいます。
推測ではありますが、式部の心の中には、これくらいのことを言っても、宣孝は受け止めてくれるだろうという「甘え」もあったのかもしれません。
こうした歌のやり取りをして、しばらくしてから、2人は対面するに至ったのでしょう。
どのような言葉を交わしたのか、それは誰にもわかりません。宣孝に対し、「つんつん」(愛想のない)した態度をとってきた式部ですが、「デレ」(甘えた)た様子も見せたのでしょうか。
新婚早々、式部が宣孝に激怒
ところが式部の歌を見ていくと、新婚早々、式部が宣孝に激怒する事件が起こったようです。
宣孝が、これまで式部から送られてきた手紙を、さまざまな人に見せ歩いたというのです。
宣孝が誰に見せ回ったのかはわかりません。一説によると、宣孝のほかの恋人・愛人ではないかと言う話もあります。
手紙やそれに添えられた歌というのは、書いた人の知性や性格をうかがう材料にもなります。それを不特定多数の人に見せられたとなっては、式部としては顔から火が出る想いだったでしょう。
式部は宣孝に迫ります。「私の差し上げた手紙をみな集めて返してくださらなければ、私はあなたには手紙は書きません」と。
式部は使者を遣わせて、手紙ではなく、上述した要件のみを宣孝に伝達したようです。
宣孝は式部に「わかった。手紙はすべて返す」とたいそう恨みごとを添えた手紙を寄越してきました。
別れるときは、恋文を相手のもとに返したという話もあるので、宣孝としては、式部と別れる決意をしていたのかもしれません。
それに対し、式部はどう出たのでしょうか。
「とじたりし上のうすらひとけながら さは絶えねとや山の下水」
(水面に張り詰めていた氷がやっと解けましたのに、それでは山の水の流れも絶えてしまえというおつもりなのでしょうか。やっとあなたと打ち解けた仲になったばかりなのに。縁を絶とうというのですか)と。
これまでの強気な態度から一転。式部は弱気にも見えるような、退く体勢に入ります。宣孝の強硬な態度に、さすがにビビったのでしょう。
この式部の歌に対する宣孝の返歌も「こち風にとくるばかりをそこ見ゆる石間の水は絶えば絶えなむ」
(打ち解けたなんて言っても、どうせ見せかけだけ。情の薄いことは見え透けているから、絶えるのなら絶えても惜しくはない)というもの。
宣孝、かなり攻めてきます。とは言え、式部も負けてはいません。
「言ひ絶えばさこそは絶えめ何かそのみはらの池をつつみしもせむ」
(お言葉のように、罵り合って2人の仲を絶ってしまうおつもりなら、それもいいでしょう。腹が立っていらっしゃるのを、怖がってはいません)と返すのです。
宣孝が突如折れて降参する
これでとうとう2人の仲も決裂かと思いきや、その夜に、宣孝から次のような歌が送られてきます。
「たけからぬ人数なみはわきかへり三原の池に立てどかひなし」
(たいしたこともできない人間である私は、腹の中は波立つように沸き返りますが、腹を立ててみても、仕方がないこと)と突如、宣孝は折れたのです。
宣孝の「降参」によって、この夫婦ゲンカは収束を見せたのでした。
それにしても、紫式部もなかなかの気の強さであります。そして、宣孝が強気に出てきたところで、いったん引いてみせるというのも、才女というべきでしょうか。
(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
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