師匠の桐山清澄九段(写真左)の自宅で指導してもらっていたとき、「おやつタイム」が楽しみだった。写真は13年ぶりに再訪した際のもの(筆者撮影)現在、藤井聡太名人に挑戦している豊島将之九段。先に行われた第1局、第2局では残念ながら黒星となりましたが、当代最強の名人を窮地に追い詰めたと話題になりました。5月8日、9日に行われる第3局での熱戦も期待されています。天才と称される藤井名人。豊島九段も、小学3年生のときに史上最年少で棋士養成機関・奨励会に入会し、平成生まれで初のプロ棋士に、そして令和初の名人となった実力者です。どのようにして天才棋士は生まれたのか。幼き豊島九段が将棋の世界に飛び込んだ日のエピソードを、『絆―棋士たち 師弟の物語―』より一部抜粋・編集のうえ、お届けします。前回の記事:藤井聡太に挑戦「豊島九段」が人との練習やめた訳

豊島将之、当時5歳

1995年6月頃、関西将棋会館の道場に小さな男の子が母親に連れられてきた。手合係をしていた土井春左右に母親は「息子はまだ人が将棋を指しているのを観たことがないんです。見学させていただけますか?」と言った。男の子は5歳になったばかりだという。

土井は長く関西本部で働いてきた。時々、小さい子が親に連れられて道場にくる。上級者・有段者が指している光景は、初めての人には近寄りがたいものだ。「どうぞ入ってください」と優しく招き入れた。

その日はお客が多く、土井は手合に追われて母子を気にかけることはなかった。1時間ほどたった頃、ふと思い出してバイトの青年に「あの子はもう帰ったかい?」と聞いた。5歳くらいの男の子は5分か10分も観たら飽きてしまう。当然もう帰っているだろう。すると青年は言った。

「いえ、まだ観てますよ」

男の子は有段者同士の対局を見つめていた。指し手はすぐに進まない。1時間以上たっても勝負がつかない将棋を、男の子はじっと観ている。わかるはずのない局面を一心に。

名前は豊島将之といった。母子が帰るときに土井は言った。

「この子は将棋に向いています。道場に連れてこられたら必ず強くなりますよ」

母親は見学にきただけで通わせるつもりまではなかった。でも土井の言葉には、不思議な説得力があった。「幼稚園が早く終わる水曜日と土曜日に連れてきます」と返事をした。

次に豊島が来た日に、土井は六枚落ちの指し方から教えた。定跡の理解は初心者には難しい。これまで何人もの子どもや女性に教えてきたが、すぐには覚えられなかった。しかし、豊島は全て一度で覚えていった。

道場にはほかにも小さい子たちが連れてこられる。子どもの将棋は早い。10分ほどで終わると、次の手合がつくまで遊び出す。大声を出したりして、常連の客から叱りつけられる光景も珍しくない。だが豊島がそうした遊びに加わることは一切なかった。手合を待つ間も、道場の後ろに置いてある『将棋世界』や棋書をいつも読んでいた。

土井が「読んでわかるの?」と聞くと、「将棋の字はわかるから。あと数字は読めます」と答えた。母親が土井に言った。「2歳のときに植物図鑑を与えたときも、文字を全く読めないのに、図鑑の隅々まで繰り返して見ていました」。

土井は関西本部で30年近く働いてきた。将棋大会があれば会場の手伝いに行き、子どもの将棋も数えきれないほど見てきた。しかし豊島のような子は初めてだった。連盟職員たちに言った。

「すごい子がきた。あの子はきっと関西を代表する棋士になる」

自分がかなえられなかったプロへの夢

土井が奨励会を退会したのは32歳。初めて年齢制限が設けられたときだった。

「中学3年から、ずっと将棋だけでした。三段まで上がりましたが、その年までやったら自分の才能はわかりますから。悔いはなかったです」

11歳下の桐山清澄(九段、のちの豊島の師匠)が入会してきたのは、土井が22歳の時だった。

「桐山さんはまだかわいい子どもでした。最初は負けてばかりで、弱い子が入ってきたなという印象でした」

当初は桐山とは角落ちくらいの実力差があったが、三段リーグで並ばれる。土井の記憶では三段での最初の2局は自分が勝ったという。しかし半年が過ぎた頃には、桐山にはもう勝てなくなった。

「ああ、この人は棋士になるな」と思った。悔しさは以前ほど感じなくなった。何度も経験してきたことだ。

退会後に勧められて関西本部の職員になった。アマ大会には出場せずに、第二の人生として指導者の道を選ぶ。当時は「準棋士」と呼ばれた。月曜日から金曜日まで連盟の総務で働き、週に数日、夜は企業の将棋部に稽古に出向く。日曜、祝日は将棋大会に運営の手伝いとして駆けつけた。現在の関西将棋会館建設の際には、当時の大山康晴会長と一緒に寄付集めに回った。

将棋連盟を55歳の定年で退職した後、嘱託として道場の担当になった。それまでも、準棋士として子ども教室を開き、月謝をもらって指導もしてきた。生活のためでもあったが、才能のある子を見つけたい気持ちが強くあった。自分がかなえられなかったプロへの夢――。

棋士になりたいという子は何人もいた。だが、自分から受験を勧めたのはそれまでに矢倉規広(現七段)だけだった。土井は言う。「入会して、途中で辞めていった子が何人もいました。ご存じだと思いますが、三段の壁は大変ですからね……。そやから、あんまり勧めることはしないんです」

豊島に出会ったのは、土井が60歳を前にしたときだった。駒落ちから丁寧に教えると1年で初段になった。

「あんな小さな子の昇級が早ければ目立ちます。私が道場で豊島君にだけ教えているのは、他のお客さんの手前、よくないと思いましてね。それで月に1回、私が大人を集めてやっている同好会のほうに来てもらうことにしたんです」

豊島九段が2019年に名人を獲得した際、土井春左右氏(写真左)は祝辞を述べた(写真:『絆―棋士たち 師弟の物語―』より)

豊島は史上最年少で奨励会に合格

幼い豊島に負けず嫌いな一面を感じたことがあった。母と大盤解説会に来ていたときのことだ。次の一手問題が出されたが、難しい局面だったので正解者がいなかった。景品が抽選で配られることになり、偶然、豊島の名前が呼ばれた。

母親が「当たったよ!」と伝えたが、「僕は正解じゃないから、要らない」と言う。はずれたのが悔しくて、何度名前を呼ばれても行こうとしない。仕方がないので母親が代わりに受け取った。「普通、5、6歳の子どもなら喜んで行くものなのですけどねえ」と土井は言う。

土井の指導は5歳のときから、小学3年で奨励会に入るまで続いた。豊島は小学1年のときに両親に「棋士になりたい」と告げたという。3年生のときには道場で六段、土井に平手で勝つようになっていた。「奨励会に入るなら、少しでも早いほうがいい」。土井は両親にそう言った。9歳の夏、豊島は史上最年少で奨励会に合格した。

自分の役割は終わったと土井は思った。

「桐山先生のお人柄はよく知っていました。奨励会のときから指していますし、先生が連盟理事を務めたときに私はその下で働いていました。豊島君をお願いするのに何も心配はなかったです」

奨励会に合格しても、豊島はしばらくは同好会に通うつもりだった。しかし土井は「もうここは卒業だよ」と伝えた。これからは、この子と指す機会はほとんどないだろう。昇級したときだけでも、声を聞きたかった。

「級が上がったら、電話くらいしてくれよ」

豊島は四段になる日まで、例会が終わるとその日の成績を土井と師の桐山に電話で報告し続けた。

弟子入りした日の「対局」

お父さん、居眠りしているの?

心配してそばにいてくれるのはうれしいけど、桐山先生と僕が対局している前でそれは……。だってこれ、入門試験だよ。

バス停を降りると、長い上り坂が続いていた。道沿いの公園には桜があり、五分咲きを迎えていた。1999年4月4日、8歳の豊島将之は、両親と指導棋士の土井春左右に連れられて、初めて大阪・高槻市にある桐山清澄九段宅を訪れた。プロを目指すための入門試験である。

桐山は普段から研究を行っている奥の仏間に盤を用意して、豊島と向き合った。母親と土井は別室で待機することになり、父親だけが息子を見守るために盤の側に座った。桐山が駒袋を開けると、盤上に飴色の駒がこぼれた。静かな深い光沢。少年はそれを「美しい」と感じた。「こんな色になるまで指さないと、プロ棋士になれないんだ」。

互いに駒を並べ終わると、桐山は自分の角行を、駒箱に納めた。「角落ち」。通常、プロ棋士が8歳の子を相手に指す手合ではない。だが桐山は、豊島が土井に平手で勝つことを聞いていた。

入門の日に指した棋譜を並べる豊島九段(写真右)と師匠の桐山九段(筆者撮影)

桐山は当時50歳を超えていたが、B級1組に在籍していた。タイトル獲得4期、A級通算14期。中原誠十六世名人や米長邦雄永世棋聖らと何度もタイトル戦の舞台で対局してきた。同世代のスター棋士のような派手さはなかったが、長きにわたってトップクラスに在籍した実力は「いぶし銀」と称された。

豊島の母は、息子に奨励会を受験させることに躊躇いがあった。道場での昇段の早さを注目され、周囲からは「すごいですね」と言われる。でもそれは息子が熱心に棋書を読んで勉強しているからで、才能とは違うのではないか。

また豊島が将棋を覚えた頃、父親は弁護士になるための司法試験浪人をしていた。現在のようなロースクールがない時代、裁判官・検事・弁護士の資格を得るための司法試験は、国家試験の中でも最難関であった。合格までに10年以上かかることも珍しくなく、その厳しさは将棋の奨励会と通じるものがある。

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父親は無事に合格して弁護士になり、母親はホッとしたばかりだった。しかし、息子が奨励会に入れば、また祈るような日々が始まる。プロ棋士への道が狭き門であり、指導してくれた土井が三段で退会したことも聞いていた。

始まって間もなく、豊島の目の端にうつらうつらと揺れる父の姿が映る。「ここで寝ちゃうんだ」。仕事の疲れが出てしまったのだろうが、いまは思いやる余裕はない。この将棋で弟子になれるかどうか決まるのだから。「先生が気づかなければいいなぁ」とヒヤヒヤしていた。

一方、桐山は盤上しか見ていなかった。目の前にいる小さな子が指す将棋は、弾けるような元気さにあふれていた。互いの指が、呼応するように盤上に伸びる。

師弟の物語はすでに始まっていた。

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