クリストファー・ノーラン監督(右)の描くオッペンハイマーは、優れた科学者であるが故に精神を病んだ男というよくあるパターンを踏襲している ©UNIVERSAL PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.

<ドラマチックな映像は素晴らしいが、科学者オッペンハイマーを描く試みは不完全>

映画『オッペンハイマー』のような「実話に基づく物語」の難点は、分かりやすく整理された実話はめったにないということだ。ハラハラするクライマックスの後に、大団円のエンディングが待っていることはまずない。現実の世界は正義感と懸け離れた動機や失敗や挫折だらけで、話の展開もつまずいたり急に進んだりとスムーズにはいかない。

そこで創作の出番となる。話の流れをスムーズにしたり、第三者にも分かりやすくするために、実話に少しばかり手を加える作業がなされる。

だが、科学は分かりやすいストーリーにされることをかたくなに拒否する。そこが科学を描く映画の難しいところだ。ストーリーの基礎を成す科学と登場人物と歴史に忠実でありつつ、観客が求める緊張感やドラマを盛り込むのはとてつもなく大変な作業だ。そして多くの場合、科学が真っ先に犠牲になる。『オッペンハイマー』も例外ではない。

この作品では、科学が大きなカギを握っている。そもそも主人公のロバート・オッペンハイマーは物理学者であり、彼の科学を理解せずして、彼という人間を理解することはできないし、マンハッタン計画におけるオッペンハイマーの役割を完全に把握することもできない。

脚本も担当したクリストファー・ノーラン監督は、ある部分では物語の流れにマイナスになる可能性があっても、科学的な事実に忠実であるために極端なことをした。

例えば、音と光では伝わるスピードが違うという科学的な事実の扱い方。オッペンハイマーらが史上初の核実験を観察したベースキャンプは、爆心地から約16キロ離れていた。つまり、スクリーンいっぱいに原子爆弾のキノコ雲が広がってから、オッペンハイマーたちが爆音を聞くまでの間に、まるまる1分ほどの不気味な静寂があるはずだ。

下手な監督なら、観客がその間にけげんな顔をすることに不安を覚えるだろう。だが、ノーランはそれを完全に表現することを恐れなかったどころか、ドラマチックな演出のために時間差を延長している。しかも閃光と奇妙な沈黙と遅れてやって来る爆音という流れは、物語の中心的なテーマとして映画の中で何度か効果的に登場する。

原爆と水爆の違いも説明せず

ノーランは原爆のパーツや、マンハッタン計画の舞台となったロスアラモス研究所(現ロスアラモス国立研究所)の雰囲気などのディテールもうまく描いている。

ところが、これらの研究所で行われた科学の説明はかなりあっさりしたレベルに抑えられている。とりわけ原爆の科学的なプロセスについての言及はゼロに近い。どうしても説明が避けられない場合も、後のシーンとつじつまを合わせるレベルだ。

1944年にちょっとした危機を引き起こし、核開発の方向性を変更させることになったたプルトニウム240の問題については、言及すらされていない。

ロスアラモスを離れてからのオッペンハイマーの人生は、水素爆弾の開発に反対する立場によって大きく揺れ動くことになる。それなのに、マンハッタン計画で開発された核分裂兵器(原子爆弾)と、第2次大戦後に物理学者のエドワード・テラーや原子力委員会のルイス・ストローズ委員長らが開発の必要性を唱えた熱核融合兵器(水素爆弾)の違いも、十分に説明されることはない。

原爆と水爆は科学的にも、技術的にも、道徳的にも異なる兵器だ。それが全く明らかにされないから、史上初の核実験というクライマックスの次にやって来る映画の第3幕、すなわちオッペンハイマーが水爆の開発に反対し、それが彼の人生の転落と、兵器開発コミュニティーの分断を引き起こしたくだりも、科学的な事実と切り離されて進行する。

だが『オッペンハイマー』にはスムーズな進行のために科学的な説明を省略する以上に、科学を軽視している部分がある。例えば、カリフォルニア大学バークレー校の同僚だったフランス文学者のハーコン・シュバリエが「君にはわれわれには見えない世界が見える。それには代償が伴う」とオッペンハイマーに語るシーンがある。

「心を病む天才」のパターン

映画の多くの場面で、そしてよく知られる伝記でも、オッペンハイマーはギリシャ神話に出てくる男神プロメテウスになぞらえられる。神々を欺いて人類に火を与えたために、半永久的に拷問を受ける代償を払うことになった神だ。だが、シュバリエが言う代償は、プロメテウスの払った代償とは異なる。

ノーランによるオッペンハイマーの描き方は、実のところ同じギリシャ神話でも、プロメテウスよりもイカロスに近い。ロウでできた翼を得て、太陽に近づきすぎたために転落した青年イカロスのように、オッペンハイマーは純粋に科学を追求したがために人生に失敗する無垢な男として描かれているのだ。

こうして物理学者や数学者を主人公にした映画によくあるパターンと同じように、天才的な頭脳を持つが故に精神を病むようになった男が描かれていく。実際、オッペンハイマーが観客に向かって、「私は隠された宇宙があるという幻影に苦しめられた」と語りかけるシーンもある。量子力学を示唆する星やら閃光やらが飛び交う映像も、ところどころに挿入されている。

古代ギリシャ人は、哲学者タレスが星を見上げていたために穴に転落したと考えたが、ノーランが描くオッペンハイマーも科学のことばかり考えていた変わり者だ。「あれほどのことが分かる男が、どうしてこれほど盲目なのか」というある人物のセリフはそれを踏まえている。

多くの科学史家と同じように、筆者も映画『オッペンハイマー』については複雑な感情を多々抱いた。ある科学者の人生を芸術的に描いた素晴らしい作品であるという点には、全く異論はない。

だが、科学を通して世界を見るとはどういうことなのかという描写を省略している以上、科学者オッペンハイマーを描く試みが不完全に感じられるのは避けられない。

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