歌舞伎を生んだ文化の香り漂う河原町

「歌舞伎発祥の地といわれる四条河原にある南座は、やはり歌舞伎役者にとって特別な劇場です」

「京都 南座」(京都市東山区)は鴨川に架かる四条大橋の東詰、南側に建つ。その屋上にある芸能の神・弁財天のお社の傍らで、新進気鋭の役者・中村鷹之資さんは神妙な面持ちで河原を見下ろした。


南座の屋上にて。鷹之資さんの後ろには、弁財天を祭る小さなお社がある(一般参拝は不可)

取材に訪れたのは、鷹之資さんが現代劇『有頂天家族』で主役を演じていた11月下旬。寒さが急激に増した日だったが、眼下の橋ではたくさんの観光客が行き交っていた。12月からも南座伝統の「吉例顔見世興行」への出演を控え、通い慣れた四条河原について、こう語った。

「鴨川沿いを歩いて劇場に入るまでに、おしゃれな店を見つけたり、音楽が聞こえてきたりする。そして『人が集まる川や橋は、文化・文明の生まれる場所だ』と日々感じるんです。交通の要所だった昔は、なおさらのことだったでしょう。今でも南座は、祇園や宮川町などの花街に囲まれ、四条大橋を渡れば先斗町(ぽんとちょう)や木屋町に趣深い料理店やバーが立ち並ぶ。そうした華やかな環境の中で、歌舞伎の演目や芸術性は磨かれていったのだと実感しています」


花道越しに見る南座の舞台 写真提供:松竹


1階の客席で南座への思いを語る

唯一残る幕府公認だった歌舞伎小屋

南座には、 “歌舞伎の祖”とされる出雲阿国からつながる長い歴史がある。

江戸時代初期の史書『当代記』は、出雲大社の巫女だった阿国が京に上り、1603(慶長8)年に「かぶき踊り」を披露したと記す。阿国はその後、北野天満宮(京都市上京区)に定舞台を設け、一世を風靡した。


左)四条大橋東詰の北側に立つ「出雲阿国像」。案内板には「この四条河原で先鋭的な伊達男風の扮装で『かぶきおどり』を披露とある 右)南座の西壁面にある「阿国歌舞伎発祥地の碑」

さらに諸国を巡業し、江戸城にも招かれたことから、阿国歌舞伎の人気にあやかろうとした座が各地に生まれた。発祥の地・京都では、四条河原に櫓(やぐら)を揚(あ)げた芝居小屋が並び、にぎわいを呼んだ。京都所司代は元和年間(1615~1624年)、そのうち7つの櫓に認可を与えるが、女性が男装する「女歌舞伎」は風紀を乱すと禁止令を発布。成人男子が女方も演じる「野郎歌舞伎」へと移り変わっていく。

18世紀に度重なる火事などで小屋の廃絶が続き、江戸時代後期には、八坂神社の旧参道である四条通を挟んだ「南の芝居」と「北の芝居」の2座のみが残る。そして1893(明治26)年、北の芝居も幕を閉じ、幕府公認の櫓を揚げていた小屋は南座だけとなってしまった。


左)桃山風の重厚な外観 右)今でも掲げられる櫓は、江戸幕府公認の劇場だった証し(2024年11月撮影)

昔ながらの芝居小屋の雰囲気が残る

松竹が1906(明治39)年、南座を買収。1929(昭和4)年に鉄筋コンクリート5階建て、桃山風の瀟洒(しょうしゃ)な建物を建造する。以後、改装を繰り返しながら保存され、1996年には国の登録有形文化財の指定を受けた。

直近の大規模改修では耐震補強工事を施すため、2016年1月から2018年10月まで長期休館した。完成後は「南座発祥400年記念 南座新開場記念」と銘打ち、吉例顔見世興行を11~12月の2カ月間にわたって開催。二代目松本白鸚、十代目松本幸四郎、八代目市川染五郎の襲名披露も行われたことで、大きな話題を呼んだ。


2018年の吉例顔見世興行初日の南座。役者名を描いた「まねき看板」には白鸚・幸四郎・染五郎のほか、そうそうたる顔ぶれが並ぶ 写真:時事

現在の客席数は1082席で、東京の歌舞伎座(1964席)や新橋演舞場(1428席)に比べると小振り。舞台で特徴的なのは、何といっても上部に飾られた唐破風だろう。

江戸時代初期の芝居小屋は、客席部分に屋根はなく、舞台の上や桟敷席だけに屋根が設けられた。享保年間(1716~1736年)に小屋全体に屋根が架かるようになっても、しばらくは舞台上部の屋根は残り、能楽堂のような「屋上屋(おくじょうおく)を架す」構造だった。その後、芝居小屋では舞台上の屋根はなくなっていくのだが、南座だけはその伝統的なスタイルを保存し続けている。


歌舞伎通が好む3階席からの眺め。舞台上部中央の唐破風は、南座の特徴だ 写真提供:松竹

そんな南座を鷹之資さんは「昔ながらの芝居小屋の香りを残している」と評す。そして、歌舞伎の原点にも触れられる貴重な場所のようだ。

「外観の趣あるシルエット、朱色を基調にしたロビーやレトロな照明が素敵なのはもちろん、コンパクトな舞台・客席もちょうどいい。歌舞伎役者にとっては歌舞伎座が一番のホームグラウンドですが、芝居小屋というには少し大きいというか、やっぱり劇場なんです。それが南座に立つと『昔の演目や型は、このサイズ感、空気感でつくられたんだ』と感じられ、学ぶことが多々あります」


お気に入りのロビーにて。壁に飾られる「勧進帳」の絵は、大正期の南座公演を描いたもの

顔見世の雰囲気に圧倒された南座初舞台

鷹之資さんが初めて南座の舞台に立ったのは19歳の時。改修直後、12月の吉例顔見世興行だった。「町全体がお祭りムードで、客席はぎゅうぎゅう詰め。緊張しっぱなしだったのを覚えています」と振り返る。

顔見世は「芝居国の正月」とうたわれる公演。かつて多くの座が興行を打っていた時代、役者とは1年ごとに契約を結び、期間を11月から翌年10月末までとするのが慣例だった。劇場が新しい役者陣を披露するため、毎年11月に開いた重要な興行が顔見世で、中でも南座のものは一番古い歴史を誇る。

松竹は1913(大正2)年に歌舞伎座の経営権を獲得すると、「東西合同大歌舞伎」として11月に歌舞伎座、12月に南座で顔見世興行を打つようになった。歌舞伎界を支える唯一の企業となり、毎年の出演契約が必要なくなった今でも、松竹はその伝統を守り続けているのだ。


2024年の終盤は、2カ月連続で南座の舞台に立つ。『有頂天家族』と「吉例顔見世興行」のポスター前で

歌舞伎発祥の地でさらなる飛躍を誓う

人間国宝だった父・五代目中村富十郎は、鷹之資さんが11歳の時に永眠。南座を訪れる機会は減ったものの、父と四代目(祖父)の墓所があるため、京都にはなじみがあったという。それでも顔見世時期の町の雰囲気は独特で、特に驚かされたのが「花街総見(かがいそうけん)」だった。

芸妓や舞妓が芸の肥やしとするため、顔見世興行を観覧する花街総見。京都に残る5つの花街ごとに総出で南座へ訪れ、あでやかな着物姿が桟敷席にずらりと並ぶ様子は圧巻である。役者名を描く「まねき看板」をかたどったかんざしを挿すのが習わしのため、ひいきの役者に名前を書いてもらおうと、幕間の楽屋にまでやって来たそうだ。


2022年の吉例顔見世興行に訪れた舞妓ら 写真:共同

「初めての顔見世は、(中村)鴈治郎のおじさんと相部屋させていただいたので、すごい数の舞妓さんが押し寄せてきました。『何これ、顔見世ってすごい…』と衝撃を受けたのを覚えています。同時に、やはり京都には文化・伝統が生き続けているとも感じました。華やかではありますが、役者にとっては目の肥えたお客さんが集まるのが南座。気を引き締めねばなりません」


『有頂天家族』では主役を演じ、自分の楽屋部屋を持つまでになった

『有頂天家族』で主演し、今回の顔見世では『大津絵道成寺』の弁慶、『元禄忠臣蔵』の大石主税(ちから)、『越後獅子』と出番も多い。成長した姿を南座の観客に見せたいところだ。

「現代劇に初挑戦し、役者として進化できた部分があるし、歌舞伎の素晴らしさも再確認しました。顔見世も出演を重ねて大分慣れてきましたが、今年も新たな気持ちで舞台に立ちたいと思います。来年は大阪・関西万博もあるので、京都と歌舞伎の歴史を背負った南座へも、ぜひ足を運んでください」


2025年正月には「新春浅草歌舞伎」の出演が決まっている鷹之資さん。その活躍から目が離せない

南座「當る巳歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」

  • 開催期間:2024年12月1日~22日
  • 開演時間:昼の部=午前10時30分~、夜の部=午後4時~
  • 住所:京都市東山区四条大橋東詰

撮影=松田 忠雄
ヘアメイク=花井 菜緒(JOUER)
取材・文=土師野 幸徳(ニッポンドットコム編集部)

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。