誰が何を考えているのか見えない時代
高度経済成長期の日本では、一億総中流が言われた。この時、誰もが豊かで均質な中間層にいたとされるが、実はそれは正確ではない。この時代、伝統―近代の相克による世代格差、農業、ブルーカラー被雇用層、自営業主、大卒ホワイトカラー層の階層格差、男女の機会の不均等、そして冷戦構造を背景とした保革の政治対立など、社会意識を理解するための「補助線」が明確だった。大衆の社会の心は、中間層への求心性を示しながらも、明瞭なフレームで切り分けることができたのだ。
以来、半世紀が経過した。この間の調査計量社会学の知見からは、緩やかながら確実なトレンドが示唆されている。それは現代日本が、誰が何を考えているのかを推測することが難しい社会になってきたということだ。
私たちの研究プロジェクト(SSPプロジェクト)では、20世紀に実施された社会調査を継承し、現代日本人の社会意識について、時点間比較が可能な調査設計で、同じ質問を繰り返している。そこで扱われるのは、階層帰属、満足度、格差意識、価値観の保守性、ジェンダー平等、教育への志向性、将来展望の不安、他者への信頼、仕事や家庭生活についての価値観、NPOや市民活動の積極性、政治意識、消費の活発性などである。
これらの社会意識のあり方を左右する要因としては、性別、年齢に加え、学歴、職業、収入という階層的地位、家族、居住地域などの社会的属性が考えられる。社会構造上のどの位置にいる人が、いかなる心理状態にあるのかが研究対象とされるということだ。ベースとなっているのは、産業経済セクターへのかかわり方(客観的地位)によって、人びとの社会意識のあり方(主観の状態)が決まるとした19世紀のK.マルクス以来の理解の枠組みである。
ところが21世紀に入ったころから、この客観—主観関係をみる分析モデルの予測力が低下しはじめた。職業にせよ、収入にせよ、年齢にせよ、人びとのプロフィールごとの考え方のコントラストがはっきりしなくなってきたのだ。家族構成、居住地域、友人知人のネットワーク、社会参加経験などに視野を広げても、今の日本人のものの考え方を左右している決め手は見出せない。他社会ならば、エスニシティ、宗教、居住地などが社会の分断の要因として挙げられるが、日本社会ではそれらの影響力は概してそれほど強くない。
消齢化社会
これと重なる傾向を、生年世代に注目して明らかにした研究がある。博報堂生活総合研究所は、1992年から継続してきた「生活定点調査」の結果を分析し、2023年の日本社会を消齢化社会と名付けている。その特性は2点ある。
第一は、社会の中核を構成する20〜60代において、社会意識の世代差が、かつてのように明瞭ではなくなったということだ。世論調査や市場調査の分析では、団塊、ロスジェネ、氷河期、ゆとり…というように、世代の切り分けがなされてきたが、こうしたセグメントごとの差が消えはじめているというのだ。
第二は、それは社会全体の画一化、均質化を意味しているわけではなく、それぞれの世代の中に、多様な考え方の人たちが混在しているということだ。考え方の多様性は大きいのだが、それをすっきりと理解するのが容易ではなくなっている。この変化は、平均や分散の異なりという見た目の記述統計水準には表れてこない。社会意識と社会構造の繋がり方の水面下での変質であるからだ。
これがデータに現れ始めたのは、この数年のことだ。その最大の要因は、調査対象世代の漸次的な入れ替わりである。20年ほど前までデータの中核であった団塊の世代をはじめとする高年世代は、名実ともに現役社会から退出し始めた。代わって今は21世紀生まれの若年世代が社会に入ってきている。
もっとも、新旧の世代間に、はっきりした分かれ目があるわけではない。そして人口規模も、退出する人びとは人口が多く、若い方は少子化でインパクトが小さくなりがちである。そのため、データ上は従来あった枠組みが緩やかに消えていくという動きになる。あえて言うならば、日本の社会意識は1970年代中盤生まれ、つまり団塊ジュニア世代前後をおおよその分岐点として変質したようだ。
右肩上がりから失われた30年へ
しかし、どうして世代交代によって誰が何を考えているのか分からなくなるのだろうか。そこで示唆されるのは、背景にある社会変動の影響だ。20世紀後半、日本は右肩上がりの変化を経験した。しかし平成の初めのバブル崩壊をおおよその変曲点として、ポスト近代化期の高原状態に至った。その後は、いわゆる失われた時代が30年以上経過している。
この時代性に生年世代を重ねると次のようにいえる。今の壮年層以上は、右肩上がりの変化の時代を経験している。団塊ジュニアは、幼少期から学齢期にこの時代を見た最後の世代である。ここまでの層では、若いということが、豊か、高い、新しい、革新的、民主的ということと結びつくという枠組みがあった。そして雇用は固定的で、男女の役割や関係性も明瞭で、望まれるライフコースの歩み方が社会に共有されていた。そうした社会を是認してはいなくても、そういう枠組みがあることを人びとは認識し、そこでの自分の位置取りを自覚(アイデンティファイ)していた。
しかし、時代変化のベクトルを失ったその下の世代は、その名の通りのロスジェネからZ世代まで、同じような豊かさの中に育ち、むしろ緩やかに坂を下っているといわれる時代を生きてきた。戦前派、戦中派、戦後派、団塊の世代の右肩上がりと比べると、世代間の量的な差は少なく、微かな質の違いにすぎない。
そしてそうした停滞期が、親子1世代の周期を超える長さで継続したため、子どもが親より上の学歴、上の職業的地位、豊かな経済力とゆとりある生活状態に行くことが当たり前ではなくなり、地位上昇や前進を目指す「ゲーム」の共通ルールが失われた。若い世代では、誰もが共有している、とかつては信じられていた社会の枠組みが参照されなくなり、その分だけ内部のばらつきが大きくなっている。
個人化した若年層
政治参加を例にとれば、団塊ジュニア以上の世代にとっては、国政選挙は基本的に全員が投票に行くものであり、その上で「保守か革新か」を選択するゲームだ。そこでは「この労働組合や団体に入っている自分は、憲法についてはこう考える。国際政治についてはこう考える」という20世紀の地位政治が今でも形を残している。
けれども若年世代にとっては、そもそも選挙に行くかどうかが選択の対象であり、そのうえで誰に投票するかを一人ひとりが、刹那的な自己判断で選択している。政治的なリテラシーは高いが、無党派の浮動票、という人びとが主流だ。誰が何を考えているかわからなくなった、とはつまるところそういうことだ。
上の世代が、団体競技である野球かサッカーの勝敗を競っているときに、下の世代が全く違うルールの競技、たとえばブレイキンやスケートボートやサーフィンのような個人の技量をみる競技をやっているようなものだ。
世代内で共通の構造をもっており、世代間のコントラストがはっきりしていた20世紀集団と、多様なばらつきをもった21世紀集団の分断構造は、単純な世代間の価値対立ではない。全体を一つのデータにまとめると、支離滅裂にみえる。
もっとも、若い世代では個人と社会が繋がっていないというわけではない。人びとがどんな心の状態にあるかということは、依然として社会的な力に左右されている。だが、社会全体の動向を言い当てる大きな構図の命題が、すっかりあてはまらなくなったのだ。アイデンティティの源泉は、もはや「女性」、「高齢層」、「ホワイトカラー」、「大都市居住」、「大卒」、「高所得世帯」というような大きな括りの社会的カテゴリで共通していない。それゆえに階級社会とも、年功序列社会とも、ジェンダー社会とも言い難いというのが実情だ。
人びとが社会に対してどういう構えをもっているのか、ステレオタイプ的な理解が通用しなくなっているともいえるだろう。社会意識は個人単位で細かく異なっている。この状態は、社会学では個人化と呼ばれている。A.ギデンズは20世紀の社会では個人が社会に埋め込まれていたとする。しかしポスト近代社会では個人は、埋め込みを外れ個人化の状態を経験するという。
現代日本社会は、新たに参入してくる、失われた時代に育ってきた若年層から、個人化の度合いを強めつつある。年齢差の消えた消齢化社会では、同時にジェンダー差も、階級差も、地域差もシンプルに論じることができなくなっている。それが現代日本の見通しにくさの本質だ。
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。