うつろいやすいものを永遠の存在に置き換える

「金属ってじつは硬くないんです。柔らかいんですよ。銀などを器に加工するときには、手の内で温められて、自身と一体になりながらこちらが求める形に変わっていきます」

金属は硬いものとばかりと思っていた。しかし、大角幸枝さんの作品はその言葉の通り、荘厳でありながらもなんとも柔らかな表情をたたえている。

例えば、この作品もそう見えはしないだろうか。「赤い海」と名づけられた銀と銅、赤銅による花器は、夕照の海の様を見事に表している。


銀銅赤銅接合花器「赤い海」2022年第69回日本伝統工芸展出品(写真提供:日本工芸会)

「幼少期を静岡の田舎で過ごしたせいか、自然のものに意識がいきます。特に、波や風、雲など形が定まらないものをモチーフに、器として形に留めることを面白いと思っています。壊れづらく恒久性が高い金属は、自然のはかなさとは対極にあり、うつろいやすいものを永遠の存在に置き換えることができる頼もしい素材です」

大角さんの作品は、木槌や金鎚(かなづち)で金属を叩(たた)いて器を形成する「鍛金(たんきん)」と、鏨(たがね)を使い金属の表面に装飾を彫る「彫金(ちょうきん)」という二つの技法を組み合わせて作られ、その工程は非常に複雑だ。


銀打出花器「瑞雲」2018年第65回日本伝統工芸展出品(写真提供:日本工芸会)

打てば響く素材

銀打出花器「瑞雲」の場合、まずは銀の板をガスバーナーで焼きなまし、皿状に窪(くぼ)まった木台や砂袋などを土台に木槌や金鎚で根気よく打っていく。器が立ち上がったら、さらに木槌で叩き雲のような膨らみを形作る。

次に表面に下書きをして、その線の部分を残すよう金鎚で細かく叩いて打ち出し、立体的な波状の「稜線(りょうせん)」を立てる。加えて、鏨を小さな金鎚で叩き、縦、横、斜めに細かな切れ目「目切り」を入れる。そこに鉛の箔(はく)を置き、柳の鏨で布目に叩き込んだうえで余分な箔を切り取り、金鎚で鉛を完全に叩きこみ、ようやく「布目象嵌(ぬのめぞうがん)」と呼ばれる装飾が完成する。

「一つの作品を作り上げるのに3カ月から、長いと半年ほどかかります。苦労はあるけれど、金属はこちらが加えた力に敏感に反応する“打てば響く”素材です。比較として、焼成(しょうせい)により完成する陶芸は、最終工程が火に委ねられるため、火の加減が仕上がりに大きな影響を与えます。対して金工は、自然に任せる工程がなく、仕上がりはほぼ予想通り。造形としても几帳面(きちょうめん)で隙のないものが美しいとされます。そうした金属の持ち味が私の気質に合っていて、それも長年金工を続けてこられた理由の一つなんだと思います」

大角さんが金工を志したのは、大学生のときだった。美や芸術の世界への憧れから東京藝術大学に進学。美術史を学ぶつもりだったが、実際に通ってみると、周りは絵画や彫刻などものづくりをする人ばかり。小さいころから手を動かすことが好きだった大角さんも、じきに何かを作りたいと考えるようになる。

「子どものころ、図工の時間が一番の楽しみで、家でも千代紙で人形を作っては幼稚園に寄贈していました。それを考えれば、学生時代にものづくりの世界に引き寄せられていったのも、当然の結果なのかもしれません」


大角幸枝氏

3人の師から学んだ技術を融合

芸術よりも、実用性と美を兼ね備えた工芸がいいと思った。しかし、工芸でもどの分野が合っているのかを見極めるためには、ある程度実技を学び、素材を知る必要があった。そこで大角さんは、陶芸や染色、漆芸などさまざまなものづくりに挑戦した。当時大学では他学科の実技を履修することはできず、大学の外で学んだ。

「金工は力仕事で、そのころは女性を寄せつけない男性中心の分野でした。でも、土は柔らかくて捉えどころがなく、漆は皮膚がかぶれてどうしようもない……というふうにして残ったのが金工だったんです。もっと積極的な理由としては、素材にひかれました。金属の品格ある質感、特に金と銀の奥深く優美な色と輝きに、私は限りない魅力を感じています」

技術の習得については、まず大学の先輩の彫金教室でアクセサリーを作ることから始めた。そして大学卒業後につてを頼り、帯留など金具の第一人者である桂盛行氏に入門。彫金への造詣を深めるなか、彫金による表面装飾だけでなく、その土台となる器物のボディーも作りたいと考えるようになる。

そこで今度は桂氏の紹介を得て、関谷四郎氏(1977年に重要無形文化財「鍛金」の保持者に認定)に師事。表面に金槌で打ち出した模様がある「鎚目地(つちめじ)」の器を作る技術を修得する。その後、金属の表面に細かい布目のような模様を刻んで装飾を施す「布目象嵌」の技法に惹(ひ)かれ、さらに鹿島一谷氏(1979年に重要無形文化財「彫金」の保持者に認定)に習った。

「桂先生から伝授された彫金の技術を土台に、関谷先生から学んだ鍛金の技術により鎚目地の器を作り、そこに鹿島先生から教わった布目象嵌を施して作品を作っています。おおざっぱに言ってしまえば、私の作品スタイルは、先生方の技術を融合させることによってできあがったものなんです。先生に恵まれたと思っています」


銀打出花器「夕照」 2021年第68回日本伝統工芸展出品(写真提供:日本工芸会)

アルバイトを転々としながら技術を磨く

そうして磨き上げていった技術だったが、金工製品は需要が少なく、ましてや男性中心の社会。金工に関わる仕事で生計を立てることはなかなかかなわなかった。

しかし、女性は家庭に入るのが当たり前だった時代に「“何か”は定まっていなかったけれど、“何か”で生きていこうと考えていた」という大角さんは、工芸の技術を磨くことと並行して、さまざまな仕事を経験した。

大学を卒業してすぐに非常勤の美術講師を務め、1年ほどで特許庁の審査官に転職。意匠の出願に対する審査の仕事に就いた。しかし職場環境が合わずに1年ほどで辞め、しばらくはデザイン関係のアルバイトを転々とした。それから東京藝術大学に戻り、助手の仕事を8年間続けた後に、東京家政大学の助教授になった。41歳でようやく定職に就いたのだ。

「母が90歳を超えて支えが必要になる、定年の5年前まで東京家政大学に勤めました。大学では造形表現学科を新設して学科長を務め、金工の科目を設けて、金工を定着させました。仕事があっても作品制作を休むことはなく、展覧会での発表も続けました。猛烈に忙しかった。若かったからできたことですね」

そのようにして大角さんは工芸の技を極め、2015年、69歳で重要無形文化財「鍛金」保持者に認定される。「流れるような稜線と金属特有の色彩が量感豊かな器形の美しさを引き立たせる,現代感覚にあふれた独自の作風を築いている」(2015年文化庁の報道発表から)との評価で、金工の分野では女性初だった。

「まったく予測していなかったので、認定には驚きました。たまたまそういうことになっただけで、女性としての気負いはありません。制作では、いまだに反省点が出てきます。けれどここ10年くらいでしょうか、金属のほうが『これ以上曲がりたくない』などと語りかけてくるような感覚があって、そうなってからは作ることがより楽しくなりました。いまは、素材と“対話”しながら、“無理なく到達するかたち”を追うことにいちばん興味があります」


銀打出花器「大潮」2023年第70回日本伝統工芸展出品(写真提供:日本工芸会)

人間はモノを作る生き物

このように洗練された感覚に触れると、ものづくりとはなにか特別なことのように感じられる。だが「それは違う」と大角さんは言う。

「鳥が巣を作ったりするのと同じで、人間はモノを作る生き物なんです。特に、自覚的に美しいモノを作ろうとする天性の能力を持つのが人間だと思います。いまは何でも買うことができる時代で、一見豊かそうですが、ペットボトルのお茶が普通になってしまい、急須でお茶を入れないような暮らしは貧しく、そんな生活は空虚だと感じます。

モノを生み出す行為は、人間の本質の一部なのに、それを忘れてしまっていることが問題なんです。私はただ好きでものづくりを続けてきましたが、その波及効果として、私たち工芸家の作品を見て、実際に使って、そのことに気づいてもらえたら申し分ないです。そしてそれこそが、伝統工芸が持つ力だと考えています」

取材・文:杉原由花、POWER NEWS編集部

インタビュー写真 : 横関一浩

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