戦国時代、中国地方の大半を手中にした毛利家。関ケ原の戦いで敗れ、周防と長門の2カ国に押し込まれながら、約270年後に幕府を倒す一翼を担うまでの歴史をふり返る企画展「毛利家の大切な記録」が、毛利博物館(山口県防府市多々良1丁目)で開催中だ。

 展示しているのは同家に伝わる古文書25点で、全て国の重要文化財に指定されている。

 目玉の一つが「徳川家康起請(きしょう)文」(1600年)。毛利家は元就の代に西日本最大級の戦国大名に成長したが、関ケ原の戦いで孫の輝元が総大将となった西軍は徳川家康率いる東軍に敗北。中国地方の大半に及んだ毛利家の領地は、拠点の安芸を始め4分の3が奪われ、防長2カ国(今の山口県)に削減された。

 起請文は戦い終了から約1カ月後に出され、周防と長門の2国を与える▽(輝元と秀就)親子の身命は奪わない▽虚説があれば糾明する――という3点を約束している。当時豊臣政権下の大名だった家康が、自分の名前で領土を保障する文書を出した唯一の例という。

 柴原直樹館長は3点目の約束について「徳川家と不穏なうわさが立ったとき、家康が毛利家の弁明を聞くという内容。これ以降、幕府は毛利家に温情的になった」と説明する。毛利家側はその後、窮地に陥りそうになると家康の名が記載されたこの文書を幕府側に見せて難を逃れたという。

 戊辰戦争の戦果報告書も目を引く。奇兵隊を始めとする諸隊の隊士名などが連なり、展示部分だけで約16メートル。幕府側の彰義隊と戦った上野戦争、長岡藩と激戦を繰り広げた北越戦争など、異郷での戦いで落命した数多くの隊士らの名前が「討死」したとして列記されている。

 また、長州藩が1863年に攘夷を決行し、下関から外国船を砲撃したことを褒める毛利敬親宛ての勅書も紹介している。だが、すぐに長州藩は薩摩藩や会津藩などの公武合体派により京都から追放され、苦難の時代を迎える。

 7月8日まで。問い合わせは、公益財団法人毛利報公会(0835・22・0001)へ。(大室一也)

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。